第190回 デモクリトスと米朝アンドロイド
汝らに言ひ付くるは留守、これはまたブログというて、向かうから吹く風に当たってさへ、たちまち滅却するほどの大の毒ぢゃほどに、さう心得てよう番をせい。こんにちは、大島雅己です。
人間と、コンピュータと、どっちが扱いやすく、どっちが厄介で、どっちがわかりにくく、どっちが賢いでしょうか。そんな議論をしてどうするわけでもないのですが、最近サイバネティクス等の本を読んでいて、どうしても人間と機械を比較して考えるクセがついてしまいました。
そういえば何かを機械と比較するというのは、昔から多くの人がされていますね。「人間機械論」はド・ラ・メトリやウィーナーなどが。ドーキンスは「生物=生存機械論」。中沢新一さんの「新人間機械論」があり、押井守さんの「映像機械論」があり、さらに坂本龍一さんと吉本隆明さんの「音楽機械論」というのもありました。機械というものの奥深さを感じます。
たかがシステム、単なるハコだと言ってきましたが、もうちょっとじっくり向き合った方がよさそうです(とはいえ、ハコであることには変わりないと思っておりますが)。
全然違うところで「落語機械論」というのはどうでしょう。落語を一つのシステムと見なして、機械との比較を論じてみるという、一見無謀な仕立てのようですが、落語だって情報を取り扱ってそれを出し入れしているものである以上はシステムと言えるはず。これは稿を改めて挑戦してみます。
<今日の本歌>
狂言「附子」