第1003回 融即律とストローマン
「抱かれてゐるのは確かに俺だが、抱いてる俺は誰だらう」(落語「粗忽長屋」)。こんにちは、スパイラル研究所の大島雅己です。
行き倒れた男の顔を見て隣人だと思ひ込む。その当人が家でピンピンしてゐるのを知つてもなお人違ひを認めず、現場に連れて来て面通しまでさせ、同じ人物であると言ひ張る。言はれた当人も最初は疑つてゐたがあまりに強く主張されるのでたうたう信じてしまひ自分で自分の死を嘆く。
これはもはや粗忽とかうつかり者のレベルを超えてゐます。立川談志師匠はこれを「主観が強すぎる人物たち」と解釈しましたが、私が考へるに、説得させられた方の男はむしろ自分自身を客観視することによつて己の死を認めたわけで、主観と客観の見事なコラボレーションと取れます。また、思ひ込みの強い男は物事の共通点を見抜く観察者であり、そして両者とも既成概念や固定観念に捕はれないフラットな感覚の持主だと言へるのです。かういつた姿勢はものごとの冷静着実な判断のためには欠かせない特質であり、やらうと思つてもなかなかできない貴重な資質です。
IT現場も例外ではありません。様々な事象を客観的に観察し、共通項を見抜き不整合を捉へ、論点を明確に主張する。見習ひたいスタイルです。
<今日の一唱>
古典落語「粗忽長屋」