第68回 トチメンボーとコンセンサス会議

何ンにつけ一応は、螺旋的観測をするのが癖です。こんにちは、大島雅己です。

それぐらいは言わなくたってわかるだろう…と言いたくなるような場面があります。
何かを説明する際等に、簡潔にポイントを伝えたいですから、当然、本当に必要な部分だけに焦点を絞り、説明不要な部分は極力省略することになります。問題になるのは、どこが説明不要なのかという判断軸です。

自分としては明らかに当然の事項であり今更説明する必要はないと思っていても、実は相手は知らないということがあり得ます。というより、知らない可能性の方が大きいかもしれないと思うことがあります。周知の事実だと思っていたことがそうでなかった、ということです。

なので普段のコミュニケーションの中でも、相手が当然知っているだろうという前提に立とうとする時に、ふと考え直すようにしています。自分は今この事実が共通認識になっているという前提で話をしようとしているが、もしかしたら知らないかもしれないぞ。
でもこれもやり過ぎると、相手を何も知らない無知蒙昧だと見下しているようなことになり失礼になってしまう。だから相手が何をどこまで知っているのか、丁寧に理解するよう努めなければいけないのだ、と考えます。

裏を返すと、相手がこちらの知らないことを、知っている前提でコミュニケーションしてきた場合は、知ったかぶりをせずに素直に知らないというべきだ、とも。共通認識を明確にするということです。

この辺のテーマは落語に多いですね。浮世根問、やかん、ちりとてちん(酢豆腐)、てんしき、千早ふる、などなど。いずれも、知らないことを質問されて知ったかぶる話、逆に知ったかぶる自信家を架空の質問で困らせる話で、知らないことを知らない、と言えない人間の業を取り扱っています。

<今日の本歌>
中島みゆき「あした天気になれ」

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