第69回 華氏451と移動平均法
「この文章はブログのようなものだ」と言ったらブログではなくなってしまいます。こんにちは、大島雅己です。
一時期、新聞を捨てずに何か月もため込んでいたことがあります。いつか読み返したくなるだろうという理由からです。2紙あって朝夕刊ともなので収納が大変でした。家中のラックをどんどん侵食していきやがて占領したあとはボックス型の新聞ストッカーを大量に買い込んでしのいでいました。それでどうしようもなくなったら仕方なく古い方から処分していましたが、その間、結局過去の新聞を読み返したことはほとんどありませんでした。アホですかね。
このような、「いつか使うかもしれないと思ってとっておく」行為は、現在の風潮からするともはや忌むべきものなのかもしれませんね。いつか着るかもしれない服。いつか何かに役立つかもしれない包装紙。紙袋。空きビン。空きカン。ラップの芯。チラシ。しおり。ビニールタイ。輪ゴム。プチプチ。これらは恐らく、いつか何かに役立つことはほぼないのでしょう。今ではこういったものは全て捨てるようになりました(ちなみに本だけは捨てられません。あとで読み返すことが往々にしてあるのです)。
ITの現場でもこれと同じことが起こりがちです。同じシステムを長年使い続けていると、使っていない機能やデータが発見されることがあります。しかし「いつか使うかもしれないのでとっておこう」と考える人がいます。必要になった時に一から作らなければならないことを考えると、その時のためにとっておこう、という考えです。
しかし、ほとんどの場合、「その時」は来ない、というのが実感です。
使う見込みが多少でもあるのならまだしも、見込みがないのなら断捨離を検討してみてはどうでしょうか。
とは言え、当然のことながら本当に必要なものまで捨てては意味がありません。結局それを管理するのが難しいのが問題なんだ、という話になってしまいますね…。
思い出すのはミーナ・マッツィーニ「砂に消えた涙」のせつない歌声。過去の思い出を全部砂に埋めてしまいました。でも砂だったら、がんばれば掘り起こせるかもしれませんね。
<今日の本歌>
清水義範「バールのようなもの」