第89回 ベルーフスシューレとすり足
ある朝なにやら胸騒ぎのする夢から目覚めると、ベッドの中で一人のブロガーに変わっていることに気がつきました。こんにちは、大島雅己です。
またしても「修行」の話をします。これについては日々呻吟し未だ自分の中に答えは定まっていないのですが何となくの方向性はあります。
これまでにも何度か書いてきましたが、まずは基礎練習というべき型の稽古をとにかく繰り返し行うこと、これが上達のための方法その1です。もちろん、間違ったやりかたではダメなので、稽古の内容はプロに見てもらうなどして正しいやりかたを把握する必要があります。
楽器でいえばスケール練習やロングトーン、スポーツでいえば素振りやリフティング、絵画なら素描やクロッキーでしょうか。
こういうものをとにかく量をこなすのですが、この時にやみくもに愚直に黙々と行うべきなのか、逐一反省しながら行うべきなのかは少々悩み所です。あまりあれこれ考えずにひたすら繰り返すべきだとも思いますが、機械的に繰り返すだけでなく考えながらよりよくしていこうという意志を込める方がいいような気もします。皆さんはいかがでしょうか?
方法その2は、時々現場での実戦も取り入れることです。己の実力を試し、現実を知る。そして、何がどうダメだったのか、どこがよかったか、基礎練習がどのように生かされたか等、できるだけ細かく反省、分析する。そしてまた日々の基礎練習にそれをフィードバックする。このループを繰り返すことが修行の極意ではないかなと思います。
「浜野矩随」という落語があります。矩随は親の七光りで彫刻をやっていますが腕はまるで下手。ある時唯一の理解者からも見放されてどうしようもなくなり、死を覚悟して七日七晩ひたすら彫り続け、ついに傑作をこさえましたが、これは日頃基礎練習を怠っていなかったせいか、あるいは決死の覚悟をした時に神懸り的な状態になったのか。
<今日の本歌>
フランツ・カフカ「変身」