第573回 カルテジアン劇場とライヘンバッハの滝
奇妙なブログ 夜な夜な夢に現れる 奇妙なブログ 一体なんだというのか ひょっとしたら孤独な傷心が見え隠れしたものなのか。こんにちは、大島雅己です。
落語のすごい点の一つは「演じて演じない」ところです。俳優が芝居をするような演技をしてしまっては落語にならないんです。そんなことをしたら観客はその芝居に見入ってしまう。演じる方も芝居に入り込んでいては人物の切り替えができないはずです。だから、演じるのだけども演じてはいけない。
この感覚は、なかなか説明が難しいものですが、似たようなことは他の分野でも言える気がします。例えばジャズのソロ演奏中、周りの伴奏や曲の構成を気にしなければいけませんが、そこに気を取られていては自分の演奏が疎かになりソロの意味がなくなってしまうので、ある意味周りを気にしない姿勢も必要だと思うのです。つまり周囲に合わせるようで合わせない、聴いてるようで聴いてない。猫は捕まえようとすると逃げるけど追わないと捕まえられない。追うようで追わない、でも追っているという状態を極めることで捕獲に成功する。
IT現場ではシステムの要件を決める時、これで決まったと思ってもたいてい覆ります。しかしこれを許しているといつまでも決まらない。決めるようで決めないという状態をだんだん狭めていき最後の地点に落とし込むという技量が求められるのです。
<今日の本歌>
チャールズ・ミンガス『ウィアード・ナイトメア』