第236回 単一発展史観とバブルへGO
腫れ過ぎて厚着に苦しい白タイのブログシステム今に書くやも。こんにちは、大島雅己です。
便利を知ると、知る前に戻るのは非常に難しい。このことをヒシヒシ、ビシビシ感じますね。
もし今、パソコンとスマホを一切使わずに生活しよう、と思っても、あまりにも不便すぎてオロオロしてしまうでしょう。
知り合いに連絡もできない(公衆電話から電話すればいいのだけど、番号がわからない)。
知らない言葉の意味を調べられない(辞書をひけばいいのだけど手元にない)。
来週行く飲み屋の予約ができない(電話帳とか人伝いで探せばいいのだけど、ツテがない)。
電車の最短ルートを確認できない(時刻表を見ればいいのだけど持っていないし、見るのも面倒臭い)、などなどなど…。
でもこれ全部、ちょっと前までは普通だったのですよね。会社に入って数年は、ガラケーすらなかったのです。
一体あの頃どうやって自分は生活していたのだろう…とは思うものの、それが常態だったのだから不便もなかったのです。
でも今から戻れと言われると無理なのです。
ここで言っている「便利」とは「タスクがなくなること」でしょうね。辞書を引く手間、調べる暇、手を動かす暇をなくすこと。これをITに置き換えると、「何かを便利にすると、何かから解放され、何かの能力や機会が奪われる」ということかもしれません。何が得られて、何が失われるか、ちょっと考えた方がいいと思います。本当に、便利になることがいいことなのか?
中学生の頃、音楽の苦手な級友が、譜面にカタカナでドレミの振り仮名をふっていました。子供心に、「これではいつまでも譜面が読めるようにならないのではないか」と心配したものです。まあ、譜面を読むことが目的でない場合はそれで全く問題ないのですが。
<今日の本歌>
「新古今和歌集」持統天皇