第457回 アポカタスタシス論と春の祭典

映画をとれば、とられたものはぜんぶフィルムにのっている。テープで音をとれば、音はみんなテープにのっている。だからきっと、やつらはブログをとる機械をもっているんだ。こんにちは、大島雅己です。

町田康氏原作の映画『パンク侍、斬られて候』を堪能し、サイン入りの横尾忠則氏新作図録を矯めつ眇めつ舐めまわし、筒井康隆氏『蒙霧升降』の愉悦を貪っているような日々です。こうしていると、やはり文芸とか芸術はどこまでもエッジを追求していくべきものだと感じます。

最近、横尾さんのツイッターに「常識を超えた発想、考え方、生き方がアートを作る」「世間一般の人にスンナリ理解されるようなアートはもうひとつ」とありました。最初から多くの人に理解を求めようという姿勢では、結果はソツのない、どっちつかずのものしか得られず、人の魂を動かすようなものは生まれないでしょう。イノベーションを起こすのなら、その理解者の矛先をトキントキンに研ぎ澄ませるべきだと思います。

ビジネスの世界でも具体的なペルソナを設定せよというのは常識ですもんね。IT現場でもここが取り違えられるケースは多発します。なるべくたくさんの人に役立つシステムを作ろう、と考えると、要件は発散するだけです。そのまま開発を進めるととんでもない惨事を招きます。誰の何のためのシステムなのか、具体的にイメージを描けないものは、結果もあやふやなものになるでしょう。

<今日の本歌>
ミヒャエル・エンデ『モモ』大島かおり訳

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