第1647回 角金とカンナパシアス
杉玉を訊ね求める裏小路。こんにちは、スパイラル研究所の大島雅生です。
昨日に引き続き横尾忠則氏の話ですが、現在開催中の『GENKYO 横尾忠則』があまりに素晴らし過ぎて、一日置いて二回目の見学に参りました。
今回考えたのは、絵というものを構造として見做すとどうなるかということです。絵の構造、ではなく、絵そのものをひとつの構造体だと置くとどうなるか、ということです。
一般的には、まず下地となるべきキャンバスや紙があるはずです。その上に、絵具や鉛筆などで具体的な造形を刻んだり彩色を施したりするでしょう。
さらに、描画ができあがったあと、これを本当の完成品として露呈する時には、額縁に入れ、タイトルを付けるはずです。展示であれば作者名やサイズや所蔵などを付記するかもしれません。
こういったものすべてを含めた構造として絵を捕えた場合、どこまでが「容れ物」であり、どこからが「中身」であるかは一言で括れないものになっていると考えられます。キャンバスは一見「容れ物」であるようですが、絵を支える基盤として中身を補強する存在とも言えます。絵具の色は中身を表しているようでありながら、画家の意識を内包する容れ物なのかもしれません。
つまり容れ物と中身は観察者の見方や立場によって変動すると言えるのでしょう。
<今日の一唱>
GENKYO 横尾忠則