第423回 ヘルマスの牧者と鰻の幇間

すでにこのブログの中で、書くという行為が、そのうえどんな種類のものであれブログを書くという行為が、むなしいことがらのうちに数えられてしまっているとすれば、これだけ長い年月ののちに、多少ともその外形に訂正を加えようとしているブロガーの心づかいについては、いったいどう考えたらいいのだろう! こんにちは、大島雅己です。

根が貧乏性なようで、「ついでに」とか「せっかくだから」とか「どうせなら」などという考え方がすぐに頭に浮かびます。例えば、顔を洗うついでに爪も切ろう。あるいは、せっかく出かけるなら近くの美術館にも寄ろう。はたまた、どうせ会社の経費なら高いものを食おう。

こういうのは決して悪いことでなく、むしろ時間やコストを無駄にしないための、望ましい考え方だと思うのですが、これが度を超すと、無理やりとか横着とかドケチの世界に陥ります。孔子が言う通り、過猶不及です。

IT現場でもこの風潮はよく見られます。システムの要件定義では「ここを直すならついでにあれも直したい」「せっかく画面に手を入れるならデザインも変えたい」「どうせシステムを作り替えるなら全面的にゴージャズにしたい」というような要望が飛び交います。そう頻繁にシステムの改修ができない現場ではそういう声があがるのも無理はありません。

がしかし。ここですべての声を聞き入れていてはキリがない。ITリーダーは、本来の目的がどこにあるのかをよくよく考えて、どこまでを開発のスコープにするのが妥当なのかを見極めて、関係者と合意すること、これが使命です。

楽器の練習をするのにレンタルスタジオに行くと、もともとサックスの練習が目的なのに、どうせならハーモニカも吹こう、ついでに落語の稽古もしよう、せっかくだからグランドピアノを触っちゃおう、と、あれこれとせわしなく時が過ぎ、全部中途半端で終わってしまうのが毎度のパターンなのです。

<今日の本歌>
アンドレ・ブルトン『ナジャ』

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