第203回 アブダクションと部分動機
鯛に平目に鰹に鮪に鰤に鯖、魚は捕れたて飛び切り上等買いなはれ。オッサン買うのと違います、ブログに書いたらおいしかろうと思うだけ。わてほんまによう云わんわ。こんにちは、大島雅己です。
最近気にしている言葉は「全体は、部分のたんなる寄せ集め以上のものだ」「部分は、全体のたんなる断片以上のものだ」というものです。松岡正剛氏の影響でワインバーグの「一般システム思考入門」をかじっていて、目にとまったのでした。
ふつう、IT現場で何かを分析したり調査する時、全体を過不足なく網羅しているか、とか、重複なく効率的にカバーしているか、ということが重視されます。MECEというやつですね。私もそれを使ってきました。しかしこの考え方は、何というかどうにも面白くないというか杓子定規というか無味乾燥というか色気がないというか、あまり乗り気ではなかったのです(でもまあ正しい考え方だと信じて、がんばって使うようにしておりました)。
それがここにきて松岡先生が「MECEなんてつまらない、いや、まちがっている」と一刀両断して下さり一発で溜飲が下がったのでした。つまり重なりから生じうるもの、漏れや欠番が表示すること、ズレこそがつくる意味をこそ重視するべきだ、と。なぜなら、重なりには重なるだけの、漏れるには漏れるなりのコンテクスチュアルな事情が隠れているはずで、そこに様々なことに関するヒントが隠れているから、というのです。まことに興味深い指摘です。
ただしIT現場の立場としてはどうしてもQCDを守ることが優先されてしまうのでやはりMECEが尊重されてしまうのですが…。
それにしても松岡正剛先生、そんじょそこらのIT屋さんより遥かにITに精通しておられます。いつでも大企業のCIOに転職できますね。
ちなみに音楽の世界でも、ひとつのバンドや曲を分割した時、それは単純な断片以上のものになっているし、複数のものを集めた時、それは単なる部分の和を凌駕したものになっている、というのは実感できます。
<今日の本歌>
笠置シヅ子「買い物ブギ」