第1120回 まちほぞ差しとクラトフスキー閉包

今日は朝から私のおうちはテンヤワンヤの大騒ぎ(笠置シヅ子『買い物ブギ』)。こんにちは、スパイラル研究所の大島雅生です。

「うち」は明らかに「家」であり、「内」でありましょう。そして自分のことを「うちは」と称したり「うちの母」「うちの若いモン」などと言う場合の「うち」も同じ語源でしょう。うち、とは内部を表すもの、つまり自分自身であり、自分の身内であり、自分の分身であり、自分の同朋であり、自分の組織であり、自分の所属であり、自分を代表するものなのでしょう。

うちではない範囲は外部であり、自分の世界と切り離されます。自分自身をうちだとすれば自分以外のすべてが外部になりますが、自分の家をうちだとすれば家の中のものは自分の側になる。境界線をどこに置くかによって、うちの範囲は変化します。

どこまでをうちだと規定するのか、その線引きが世界を決めるわけです。この構造は意識の中で常に目まぐるしく変わるものであり、まさにシームレスとはこのことと言えましょう。いま自分はどこまでをウチとし、どこからをソトとしているのか、常に見極めなければならないのです。

(A面へ)

<今日の一唱>
笠置シヅ子『買い物ブギ』

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