第513回 標本化定理とフォノトグラフ
いつの日か偏執狂の文学者が現れ、2010年代に繁栄をみた安物ブログをひもとき、いかにしていつどんな段階を経て大衆ブログが従来の洗練された節度の殻を脱ぎ捨て生地のままに戻ったのか究明しよう、と考えないとも限らない。こんにちは、大島雅己です。
音楽はそもそも耳で聴くものだから時間の流れに沿って一方向的にしか知覚することができません。また一度に受け取ることができるのはひとつだけで、他のものと並行して鑑賞することもできないし、一度発露されたものは取り戻すこともできない。どこかに残ることもなく、聴いた者の記憶の中にだけ存在するけれど、それを他者に伝えるのも難しく、いずれは消え失せてしまう。そういうものだったことでしょう。
これを変革したのが録音という記憶術と、記譜という可視化法ですね。それによって音楽は保存することができるようになり、内容を伝達することが可能になりました。おかげで私たちは何百年も前の、異国の音楽家が演じたり創作した音楽を堪能したり演奏したり分析したり伝達したりすることができるわけです。もはや日常の中で当たり前のことすぎて感動もなにもありませんが、考えてみればまったく革命的なことです。
しかしこの概念もITの世界には浸透していません。ものごとを正しく記録して適切に他者に伝える、それも未来の誰かに手渡すということ、この重要さを理解していない人に頻繁に出会います。まるで今この瞬間にすべてを賭けてでもいるかのような、そんな人がいまだに多いようです。
<今日の本歌>
レイモンド・チャンドラー『簡単な殺人法・序文』稲葉明雄訳