第617回 ラケダイモーンと自己奉仕バイアス

生きている生物体の空間的境界の内部で起こる時間・空間的事象は、落語と音楽によってどのように説明されるか? こんにちは、スパイラル研究所の大島雅己です。

ピアノのレッスン当日に「行きたくないなあ」と思うのはなぜなのか。ピアノを弾くのがいやなわけではない(好きで習っているわけだし)。先生が怖いのでもない(とても優しくていい先生です)。道のりが面倒だということもない(歩いて15分ぐらいの場所)。忙しくて時間がないわけでもない(いつも最優先でスケジュールしています)。それでもレッスンの日が近づいてくると憂鬱になり、胃が痛くなってくる。

これは結局、練習を怠って腕前が上がっておらず、ピアノのヘタさを思い知るのが怖いからだと思われます。しかし、ヘタだからレッスンを受けて演奏スキルを上げるわけで、ヘタさを自覚して次につなげることは避けて通れないのです。目的に向かうための当然の過程だと考えれば、憂鬱になる理由も意味も時間もありません。

IT現場では「こんなことできる?」という質問が日々交わされます。企画者の思い付きが現実的なものなのかどうかの確認なのでしょうが、できるかできないかのジャッジだけならば、ほとんどのものは「できる」でしょう。しかし問題は、できるかできないか、ではなく、やるかやらないか、だと思うのです。あるいは、なんのためにやるのか、でしょう。

<今日の本歌>
シュレーディンガー『生命とはなにか』

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