第1541回 バター状と純粋数学
くもり空晴らす気のよに飛ぶ燕。こんにちは、スパイラル研究所の大島雅生です。
非常に危険なことなのですが、いたるところに免罪符があふれています。恐ろしいのは、それが免罪符だと思われずに免罪符代わりに使われている点、そして、本質的な問題が置き去りにされてしまう点です。
仕事の会議をセッティングした時点でもうその仕事が一段落したような気分になってしまう。マイボトルを持ち歩くことで環境運動に協力したつもりになってしまう。SNSで意見を発信したことで社会問題に参加したと思い込んでしまう。
一を行ったことで十まで達成したかのような勘違いに陥って、残りの九を忘れ去ってしまう、あるいはもっと悪い方向に進めてしまうのです。ものごとに関与するならばどんなに少なくても五は越えなければ関与とは呼べないでしょう。ましてや達成できたとするならば八や九まで進む必要がある筈です。一を掠っただけで免罪符を手に入れたと思うようでは何も達成できないままでしょう。
そういえば十六世紀の宗教改革も発端は免罪符、いわゆる贖宥状でしたね。自分自身で免罪符を出す習慣を作らないようにしなければ。
<今日の一唱>
関眞興『キリスト教からよむ世界史』