第488回 カメラ万年筆とグラゴル文字

ストラウスはかせはぼくが考えたことや思いだしたことやこれからぼくのまわりでおこたことわぜんぶぶろぐにかいておきなさいといった。こんにちは、大島雅己です。

音楽のライブや落語の舞台について、いつも疑問に思うことがあります。自分が演じる側の場合でも、観客である場合でも、ふと考えてしまうのです。わざわざ離れた場所に出かけてまでしてこういうものを見聞きする意味は何だろう、と。映像を録画、録音したものを後で自宅で鑑賞すればいいのではないか。知り合いが出演しているとか知人の付き合いで来ているだけという場合はますます出かける意味は薄れそうだ。

それでもやっぱり、生の舞台を見に行かずにはいられない。一体なぜなのか。時空間を共有することにどんな魅力があるのか。などと考えていたところ、堀井憲一郎氏の『落語論』でこの問題が取り沙汰されていて、花火大会をテレビで見ることのつまらなさを挙げていました。エウレカ! この例はわかりやすい。

テレビで伝わらない会場の空気というのが確かにあります。観客の細かい反応、場内の温度や湿気、風の流れという外的なものはもちろん、自分自身の感情や体調だってその時その場だけに存在するものだし、何よりもその時の自分の視点、唯一無二のその視線は他で再生不可能なのです。

IT現場でもこういう例を感じることがあります。人伝えに聞く話を、本人から直接聞くと温度感がまるで違うものです。メールで読んだ内容を直接言葉で聞くのもそうです。書類に落とされた要件定義だって、最初に本人が喋っていた時の感じと違っているかもしれません。だからやはり、要件定義は丁寧に丁寧に行わなければならないのです。

<今日の本歌>
ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』

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