第7回 田中角栄と三遊亭圓生

私の思うようにはなりませんがブログはいつでもブログなのでそれでいいのだ。こんにちは、大島雅己です。

本日は職場のパーティーにて、余興の披露を実践してまいりました。先日も書きましたが、「有名人のスピーチ映像を無音で流し、そこに別人の声マネでアテレコする」という、それの何が面白いのかと聞かれても全く回答できない、意味不明な芸です。
結果としては、そこそこに評価をいただき、自分でもまあまあの及第点を与えてよかろうという出来でした。

あれこれ分析するような芸でないことは百も承知二百も合点なのですが、ふと考えを巡らせてしまったので書き留めておきます。
この出し物に関して自分で決めたルールがありまして、
・あくまでも映像が主体である
・声主が言いそうなフレーズを使う
この2つです。つまり、全く関係のないセリフを適当に当てはめるだけではダメなのです。喋っているのは映像の主体であり、そこに違和感を感じさせない状態で別人の声を当て、なおかつその声の主がいかにも言いそう内容のセリフでなければならない。

例えばトランプ大統領のスピーチに立川談志師匠の声を当てて、不動産問題に関するセリフを述べる。
これを見た観客の心理としては、外観はトランプであり、聴こえる内容は談志である。
これが、全く異質なものが単にぶつかっているように感じるのか、
まるでトランプが談志の物まねをしているように感じるのか、
談志がトランプに変装しているように感じるのか、
その場合、実際に演じている私自信はどういった存在として認識されるのか。
ここに、模倣の多重構造のようなものができあがった気がしたのです。

いずれにしても、「平常ではない状態」になっていたことは確かであり、それを最初からわかっているので観客は笑っているわけですが、もしこういったことが日常の中で、知らないうちに起きていたとすると、どうでしょうか?
中身と外観が実はズレていて、それを第三者が故意に行っている。しかし気付かなければそういうものだと受け入れてしまう。それが第三者の巧妙な罠とも知らず…。

今回はちょっと分析が不十分なため、無邪気に問題提起だけを行い、詳細は後日に委ねます。すみません。

<今日の本歌>
赤塚不二夫「天才バカボン」

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