第4回 寺山修司とBrexit

ぶろがれてどんばもやりつらくごられさけねこはべりしばしよじれん。こんにちは、大島雅己です。

タモリさんのデビュー以来のファンでして、アドリブでの思想模写などという当代随一の芸に中学生ぐらいで嵌りました。密室芸人と呼ばれていた彼の芸風はメジャーに支持されるものではなかったと思うのですが、あれよという間に国民的な大物タレントになってしまったのは、すばらしくもあり、寂しくもあり。私の中学高校生当時も、笑いを共感できる仲間は限られたマニアックな同士だけでした。ちなみに私の将来の夢の一つはタモリさんと飲むことです。

さて近々、職場で年度始まりのパーティーがあり、そこで余興を披露することになったのですが、何をやろうかさんざん考えた挙句に思いついたのは「映像と音声の脱構築」という実験。
有名人のスピーチの映像などを使い、音声はカットした上で、自分でアテレコするのですが、この時に全く関係のない別の有名人の口調でセリフを乗せるというものです。例えばスティーブ・ジョブズのスピーチ映像に、桂米朝のセリフをアテる。トランプのスピーチ映像に立川談志のセリフをアテる。そのようなものです。
考えついた時には前代未聞のすごい芸だ、と思ったのですが、恐らくタモリさんが大昔にさんざんやっていた気がします。

ここでふと考えたのは、外観とその中身のペアリングということです。
ジョブズのスピーチ映像を見ても違和感はないが、音声が桂米朝になると違和感が生じるのは何故か。いや、それはそもそもよく知られている別々の要素が無理やり一つになっているからですね。では、無名の西洋人が、関西弁を喋っていたらどうか。強面の屈強な大男が女子高生のような甲高い口調で喋っていたらどうか。

外観によって、内容がある程度想定できるのに、それに反した内容が露呈した場合、我々は違和感を覚えたり、笑ったりするということですね。しかしこの「内容がある程度想定できる」というのは、我々の経験等から来る勝手な思い込みかもしれないですよね。

昨今、いつ何が起きるか本当にわからない世の中になっていると思います。状況の流れを把握し、先を予想することも大事ですが、その反面、いつ何が起こるかわからない、という覚悟を常に併せ持っていることも大事だ、と、思いを強くした次第です。

<今週の本歌>
山下洋輔「ピアノ弾き翔んだ」

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